三重から日帰りで知覧をどこまで回れるかチャレンジ③
知覧特攻平和会館
今も昔も日本有数のお茶の産地である知覧町。
日本が真珠湾攻撃をかける前からすでに本土最南端の飛行場として知覧町が候補にあがっていました。
適度な平野、年中風が吹く、シラス台地による水捌けの良さなどから建設が決まり、開戦とほぼ同時に知覧飛行場は完成。
同時にに大刀洗陸軍飛行学校知覧分教場が開設されました。
戦争末期には陸軍特別攻撃隊最前線基地となり全国で特攻により命を落とした1039名の内、半数近い439名もの隊員がここ知覧から出撃、開聞岳を最後に見て散華しました。
アメリカは沖縄に上陸し次は九州へ上陸するために知覧飛行場は合計15回の空襲を受け周りの住民も被害を受けた悲しい過去があります。
それでも知覧をはじめ、鹿屋と万世とも犠牲を払いながらも最後まで戦い九州上陸を阻止しました。
知覧飛行場のあった場所に今は知覧特攻平和会館が作られ439名の遺品、遺書、隊員のお世話をしたなでしこ隊の日記から他の基地で使われた特攻兵器震洋の展示もあります。
人生に迷ったら知覧に行けと言う言葉がありますが知覧の苦悩や誇り、関係した人たちの心情と犠牲の元に今を生かされている事を覚えておかないといけないと思います。
#あきらの九州
#あきらの資料館
2024.09.23

30
