_『愚直なまでに南朝への忠義を貫いた新田義貞』
_◯⇒西暦1333年、武士の都・鎌倉を150年支配した、鎌倉幕府の執権北条家は鎌倉武士たちの求心力を失い、一方、京都では英邁闊達な後醍醐天皇が、武士の政権に替わる天皇親政を掲げて謀叛を起こし、幕府は風前の灯となっていました。鎌倉幕府の祖・源頼朝の血をひき、下野足利庄の幕府筆頭御家人の足利高氏は、後醍醐天皇の謀叛鎮圧軍に加わりながら、遠征先の関西で天皇方に寝返り、鎌倉幕府の朝廷監察を担う役所である六波羅探題を攻め滅ぼしました。新田義貞は、足利に比べれば比較にならない上州新田庄の小御家人でしたが、高氏と同様、源氏の血をひく身として、高氏と呼応し、高氏の子息の義詮を擁立して関東の反鎌倉御家人を糾合、鎌倉を攻め滅ぼしました。高氏と義貞は、ともに後醍醐天皇の新政権に参画しますが、天皇側近の公家たちを依怙贔屓する政治の進め方に失望した武士たちは、有力御家人の足利高氏を武士の棟梁として擁立、武士主導の政権誕生を期するようになりました。やがて高氏は、後醍醐天皇政府から謀叛人として追われる立場となり、鎌倉幕府打倒に貢献した板東武者ふたりは、敵味方に別れてしまいました。高氏が、後醍醐天皇に譲位を迫り、後醍醐天皇【南朝】と対立する別の皇統【北朝】の天皇を擁立して室町幕府を設立すると、義貞はひたすら後醍醐天皇に愚直なまでの忠誠を尽くし、郷里の上州から遥か離れた越前で足利の軍勢と戦い、討ち死にしました。栃木県足利市の栗田美術館の敷地内には、鎌倉攻めの際の戦死者を弔うため、上州館林の善導寺内に建てたと言われる開山堂が移築されており、律儀且つ慈悲深い新田義貞の人となりを偲ぶことが出来ます。
_◯善導寺
【https://www.danrin-zendouji.com】
_◯栗田美術館
【http://www.kurita.or.jp】