呉 大和ミュージアムさん😊
正式名称は呉市海事歴史科学館。
見所はなんと言っても1/10戦艦大和⚓️
大和の計画、建造と活動、沈没までの資料が展示されてます。
第一次世界大戦後、海軍軍縮条約(国によって持てる戦艦の数を決める)が結ばれます。
海軍ノリノリだった日本もアメリカの6割程度の数に決められ建造予定だった船は中止となりました。
全世界戦艦大正義の時代にこんな約束は守られるはずはなく(僅か5年後ぐらい?)昭和11年に条約が無くなり各国海軍を増強し始めます。
日本は物量で勝てないので無敵戦艦を作ろうぜって事で武蔵と大和の建造を開始します。
出来上がった昭和16年には第二次世界大戦が始まるわけですが…この時は海軍の時代は終わり空軍が戦局を左右する時代になってました。
しかし日露戦争で日本の戦艦こそ最強と確信していた軍部はなかなか航空隊に主権を渡す事ができません。次第にアメリカに押し返されて後がなくなり捨て身の攻撃しか打つ手がなくなります。
こうして世界最大で最強の戦艦大和は空母の護衛が主となり最後はみんなの盾になり沈むこととなります。
自慢の46センチ砲がガンガン敵を倒す事は無かったわけですが護衛任務とたくさんの爆弾を引き受けてくれた事で助かった人たちは多いと思います。
大和の出陣は
ミッドウェー海戦(初陣)
マリアナ沖海戦
レイテ沖海戦
坊ノ岬沖海戦(沈没)
46センチ砲を装備した理由は
アメリカは太西洋側で軍艦を造っていましたので対日本作戦には太平洋にでないといけません。
また西も東も海のアメリカは西の作戦、東の作戦と行き来もしないといけなくて、その際にはパナマ運河を使います。
パナマ運河は狭いのでここを渡れる大きさの船では41センチ砲が最大になる計算でした。
大和はそれを超える46センチ砲を搭載してどんな船も相手の射程外から撃てる構想でした。
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