![学びを、表現の源流を足下の海川山に求め、自分の手でつくり上げた「里浜ガストロノミー」。[pesceco/長崎県島原市] by ONESTORY](https://image.co-trip.jp/content/14renewal_images_l/500960/main_image_20201209233836388.jpg)
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2020.12.11
学びを、表現の源流を足下の海川山に求め、自分の手でつくり上げた「里浜ガストロノミー」。[pesceco/長崎県島原市] by ONESTORY
「日本に眠る愉しみをもっと。」をコンセプトに47都道府県に潜む「ONE=1ヵ所」の 「ジャパン クリエイティヴ」を特集するメディア「ONESTORY」から長崎県島原市の「pesceco」を紹介します。
店の前に広がる有明海・島原湾の風景。島原育ちの井上シェフが「この地を訪れた人々に、ぜひ見てほしい」と願う景色のひとつ
2018年8月。島原のレストラン『pesceco』は、大きく舵を切りました。町の繁華街で3年9ヵ月営んだカジュアルなイタリアンレストランを閉め、海沿いの一軒家に店を移して、新たな拠点として再スタートしたのです。完全予約制で、料理は昼夜ともおまかせのコースのみに。 「敷居が高くなった」と、足を遠ざけた地元客もいます。その一方で、「ここでしか食べられない料理がある」「店での食事を目的に島原へ旅する価値がある」と、県外から訪れるゲストが少しずつ増え始めています。

3人の子供を育てながら、店でサービスを担当する妻の井上景子さん。井上稔浩(たかひろ)シェフの大きな精神的支柱でもある
井上稔浩(たかひろ)シェフは、島原生まれの島原育ち。県外に、いや世界に伝えたい島原の素晴らしいところも、他の地方都市同様に抱えている多くの地元の問題点についても、誰よりもよく知っています。その上で「島原が好きだから」と、この地に根を張る道を選びました。愛する故郷のために、料理人だからできることがある。店のあり方を大きく変えた移転リニューアルは、井上シェフの「覚悟」に他なりません。県外の人にとっては、ガストロノミー界に彗星のごとく現れたニューフェイス。そのユニークな歩みと、『pesceco』が示すローカル発のガストロノミーの可能性を追います。
鮮魚店を営む父に育てられて、自然に育まれた食への興味

ディスカウントストア内にありながら、島原の海の幸を知り尽くした弘洋氏の店に足しげく通う料理人は、井上シェフ以外にも数多い
「ここが、僕のルーツです」。井上稔浩(たかひろ)シェフは、そう言ってある場所へ案内してくれました。九州一円に店舗を展開する大型ディスカウントストアの島原店。まだ開店前の8時過ぎ、通用口から館内に入ると、鮮魚売り場に出ます。 「今日はなんがあんね?」と聞いてきた鮮魚店の主は、父・井上弘洋氏です。挨拶もそこそこに、井上シェフは素っ気なく用件を伝えました。 井上シェフは、1986年生まれ。幼い頃、実家は鮮魚店を中心とした小さなスーパーマーケットを営んでいて、海や魚を身近に感じる環境で育ちました。当時の楽しみは、弘洋氏が仕入れに出かける魚市場について行くこと。大人になったら、父が目利きした魚を料理する料理人になりたいと、高校卒業後、『大阪・あべの 辻調理師専門学校』に進み、料理の基礎を学びます。
天然のフグ。父の弘洋氏が営む鮮魚店『おさかないのうえ』の店頭に並ぶ
専門学校卒業後は、北新地の寿司店に就職しましたが、わずか1ヵ月で辞めてしまいます。以降、しばらくは居酒屋やレストランのアルバイトを掛け持ちして資金を貯めては、国内外を旅する暮らしを続けます。井上シェフ曰く「なんちゃってバックパッカー」。 「まだ若く、自分に酔っていた部分が少なからずあったと思います。そんな僕を心配してか、父から居酒屋をするから帰ってこいと連絡があり、島原に戻りました。23歳の時です」と井上シェフは話します。 実家のスーパーマーケットの裏で父と一緒に始めた『お食事処いのうえ』。井上シェフの料理人人生は、ここから始まりました。
原点は、父子で営む居酒屋。地元客に愛された繁盛店
長く仕事をともにしてきた父子の間に多くの言葉はないが、その分、強い信頼関係が見て取れる
父が自ら目利きし仕入れた魚で新鮮な魚介料理を提供し、息子が洋の要素も取り入れた都会的な創作料理を作る。それまで島原にはなかったスタイルの店は、地元客の人気を集め、好スタートを切ります。しかし当時、井上シェフが使っていたのは、輸入食材や県外からの取り寄せ食材でした。
他の地方都市同様、シャッターを下ろしている店が目立つ地元商店街
そんな折、島原の一軒のトマト生産者に出会います。 「とにかくトマトがものすごく美味しくて。当時は知りませんでしたが、トマト生産者の間では全国的に有名な方でした。畑にお邪魔したり、他の農家さんをご紹介頂いたり。食と農のあり方などについて、かけがえのないことを学びました」と井上シェフ。 それまでは都会のレストランに負けない食材を使うことに価値を置いていた井上シェフが、自らが生まれ育った島原の土地の魅力に気付くきっかけになった大きな出会いでした。 一方で、滑り出しは順調だった父との居酒屋経営は、徐々に風向きが変わってきます。島原にも、大手ディスカウントストアが続々とオープン。小さな田舎町は、「安くて、便利」という新しい価値に沸き、大量消費社会の波に飲まれていきます。弘洋氏の営むスーパーマーケットは経営不振に陥り、莫大な借金を抱えることに。『お食事処いのうえ』での売り上げも、全て借金の返済に充てられ、2~3時間睡眠で働く日々が続きます。
『pesceco』の旧店舗。まだ新しいテナントは入っておらず、建物に刻まれた店のロゴは今も残ったままだ
「島原に戻ってすぐに結婚した自分には、その頃、すでに2人の子供がいました。安い冷凍食品で作った弁当を売り、魚もお客さんのニーズに合わせ、安価なノルウェーサーモンや冷凍ブラックタイガー、養殖のカンパチを仕入れる。好きな料理もできない、家族を守ることもままならない。どん底でした」と井上シェフは振り返ります。 理想と現実のはざまで、もがき苦しむ井上シェフ。一縷(いちる)の望みを胸に、宮城県仙台市のとあるレストランへ出かけます。
自分のやりたい店を、やるべき店を、やりたい形で

海をすぐそばに感じることができるレストラン。淡いブルーグレーの建物が、海岸沿いの景色に溶け込む
地産食材を武器に、全国からお客さんを集めるレストランがある。 そんな評判を聞き、「何かヒントが見つかるかもしれない」と思った井上シェフが、妻の景子さんとともに向かった先は、宮城県仙台市太白(たいはく)区にあるイタリア料理店『AL FIORE』。オーナーシェフの目黒浩敬氏は、仙台の市街地に開いた店を2年で閉め、仙台市郊外に農場を併設したレストランを営んでいました。農家兼料理人の先駆けのひとりです。「料理を食べて涙が出たのは初めてです。僕も目黒さんのように、料理で人の心を動かせる料理人になりたい、そう強く思いました」と井上シェフ。 島原に戻り、井上シェフは早速『お食事処いのうえ』の料理を一新します。「田舎では食べられない料理」から「田舎でしか食べられない料理」へ。しかしながら、地元の人々の反応は冷ややか。全く受け入れられませんでした。その頃には、実家のスーパーマーケットの経営はパンク寸前に。
海の景色をアートのように切り取る細長い窓は、小さな空間の重要なアクセントだ
家業から独立し、自分たちの店を一から始めたい。その申し出を、弘洋氏は快諾してくれました。「ここなら夫婦でやれる」と、町の商店街の外れに借りたのは2フロア8坪の極小物件。そこで2014年10月28日、『pesceco』をオープンします。 『pesceco』のストーリーは、景子さん抜きでは語れません。景子さんと井上シェフは、小・中学校の同級生。井上シェフが弘洋氏と『お食事処いのうえ』を開く時、「親父と居酒屋をやるんだけど、誰か手伝ってくれる人いないかな」と、真っ先に相談したのが景子さんだったといいます。 「そんなこと言われても、同級生たちもみんな仕事をしているし。私も当時、介護の仕事をしていましたが、困っているなら仕事の合間だけ、と手伝い始めてそのままここに(笑)。今思えば、まんまと術中にハマった感じですよね」と話しながら、カラカラと笑う景子さん。どちらかといえば、おっとりとした印象を受ける井上シェフに対して、景子さんはトークのテンポからして高速回転型しているような印象。二人の醸す空気は、実に絶妙なバランスです。
自分が作りたい、作るべき料理のためにあつらえた新たな厨房で、喜々として腕を振るう井上シェフ
「同級生だから、遠慮がないんですよ。僕のダメなところも、弱いところも、遠慮なく突いてくる。本当にきっついんですから」。そう話す井上シェフの表情からは、景子さんへの絶大な信頼がうかがえます。 店名はイタリア語で「魚」を意味する「ペッシェ(pesce)」と、景子さんの名前の「子(co)」を合体させた造語。魚で自分を育て、独立を許してくれた父と、どんなに厳しい状況下でも常に寄り添って、歩みをともにしてくれている妻への感謝が込められています。
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ペシコ
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