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2021.12.19
看板猫がお出迎え♪ 京町家が連なる町にたたずむ「河井寛次郎記念館」で暮らすように過ごす
大正から昭和にかけて活躍し、「炎と土の詩人」と称された陶芸家・河井寛次郎の作品やコレクションを展示する「河井寛次郎記念館」。設計から内装、調度品や襖の取っ手にいたるまで河井寛次郎自らがデザインし、家族と暮らした自宅兼工房です。ほぼ毎日記念館に通っておつとめしてくれる、看板猫・えきちゃんの存在も魅力。ゆったりと時が流れる昔なつかしい空間で、なごみのひとときを過ごしてみませんか。
清水焼の発祥地、五条坂の近く
建物は京都市の歴史的意匠建造物に指定
市バス・馬町の停留所から徒歩2分弱、京阪・清水五条駅からなら徒歩10分。格子窓に掛かる大きな一枚板の看板が目印の、風情ある木造家屋が「河井寛次郎記念館」です。引き戸を開けると、館内は奥行のある「うなぎの寝床」となっていて吹き抜けが開放感たっぷり。時を経て趣を増した飴色の空間には、寛次郎の作品がさりげなく置かれています。
2階奥は寛次郎の書斎。館内の椅子には自由に座れる
陶芸家・河井寛次郎とは?
中庭から主屋を望む。敷地奥には登り窯も
1890(明治23)年、島根県安来の大工の家に生まれた寛次郎。京都陶磁器試験所で経験を積んだのち、現在の地に住まいと窯を構えて独立。陶芸作品はもとより、彫刻、デザイン、書、詩、随筆などの多彩な作品を生み出します。思想家・柳宗悦(インダストリアルデザイナー・柳宗理の父)が提唱する民藝運動の中心メンバーとしても活動。民藝とは「民衆的工芸」のこと。日常とかけ離れた「美」ではなく、ふだんの暮らしに寄り添う道具のなかに「美」を見出すという、現代に通じる新しい価値観を広めたのです。
館内のいたるところにスタッフの方が生けた花が飾られている
気分のおもむくままに作品を鑑賞
中庭の向こう側は作品が並ぶ陳列室
帯留めや懐中時計、真鍮のキセルなど小さなものからどっしりと存在感のある壷や木彫まで、作品はバラエティに富んでいます。作品ごとの解説はあえて添えられていません。「説明書きがあると“見る”ものになってしまいますよね。ここでは自由に過ごしていただきたいんです。河井さんの家にちょっと遊びに来たよ、そんなふうに思ってもらえたら」とお孫さんである学芸員の鷺珠江さんは笑顔で話してくださいました。
陳列室に並ぶ陶器製の帯留め
「寛次郎の玉手箱」と称する2階のショーケース
愛嬌たっぷり、看板猫のえきちゃん
話かけると返事をしてくれることも
えきちゃんは飼い猫ではないのですが、この家がお気に召しているようで、ほぼ毎日ご出勤。開館から閉館までの間、ニャーとかわいい声であいさつして来館者を出迎えたり、館内でのくつろぎ方を教えてくれたり。畳や障子、展示品を破損するなんてことは一切なく、とてもお利口さんです。
置物に変身中。ひんやりする季節はひだまりがお気に入り
名前は、寛次郎没後50年展の頃に現れたことから、会場の美術館「えき」KYOTOにちなんでのこと。アンティークのように味わい深いサビ柄が、空間とぴったり!
首元の鈴をちりん、と鳴らしながらそばに来てくれました
河井寛次郎記念館と猫との縁
2階上段の間。左側の障子の手前にあるのが木彫りの猫
1937(昭和12)年の新築当初、寛次郎は余った木材でいくつか木彫作品を制作。そのうちのひとつ、木彫りの猫にはこんなエピソードが秘められています。 河井家は首にツキノワグマのような白いラインのある黒猫「熊助」と暮らしていたのですが、ある日突然いなくなってしまいます。悲しみに暮れていた娘さん(鷺さんのお母様)を見かねて寛次郎さんが木彫りの猫を制作。けれど、それを見て「熊助じゃない!」と泣く娘さんに寛次郎さんがかけたのが、「熊助がいなくなっても心配いらないよ。猫の生命体はなくならないからね」という言葉だったそうです。 家族が団らんし、寛次郎を慕う陶工や友人たちが集い、心を通わせたあたたかい場所。今度の京都旅には、河井寛次郎記念館でゆるやかな時間を過ごしてみませんか。
河井寛次郎記念館
カワイカンジロウキネンカン
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佐藤理菜子 撮影:保志俊平
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